この歴史を知らずしてカンボジアを語るべからず〜トゥールスレン博物館編〜

前回に引き続き、カンボジアで起こった類を見ない大虐殺の歴史について書いていきます。

前回紹介したキリングフィールドは主に処刑の場として使われ、ここに来た人に与えられた結末はただひとつ《死》のみでした。

https://syuuya.com/この歴史知らずしてカンボジアを語るべからず%ef%bd%9e/?preview=true&_thumbnail_id=262

キリングフィールドもまた残酷極まりない非情なものでしたが、地獄という意味では今回紹介する場所の方が上回ると感じました。

大虐殺を指揮したポル・ポトはとにかく処刑していくと同時に反乱因子を見つけることに対しても躍起になっていたそうです。

彼はキリングフィールドに送り込む人とは別に手当たり次第たくさんの人を今は博物館である拷問所に送り込みました。

では、実際に今ここへ訪れた我々は何を見ることが出来るのか。

博物館という名称ですが、実際に行ってみると博物館といった感じではありませんでした。

なんというか…ここに訪れると生々しく、物々しい、殺人現場の検証をしてる気分になります。

実際に拷問で使われたベットが使われた部屋にそのまま置かれおり、拷問の際のものと思われる血痕もそのまま残されていました。

ここまでリアルだと思っていなかった僕は、一部屋進むにつれため息の数は増え、憔悴しやつれていきました。

やはりここに関しても僕の中だけで処理しきれない感情が溢れたのでブログとして整理していきます。

では、今回もよろしくお願いします。

*各部屋で写真を撮っていれば、この記事がよりリアルになったのは重々承知です。

しかし基本的に室内では規制されており特別許可を取れた室内の写真はあるのですが基本的に室内の異様な雰囲気を撮ることはできませんでした。

つじつま合わせ

まず、トゥールスレン博物館この場所は元あった高校を少し改造し拷問の場所、情報を聞き出す場所として作られた。

しかし、実のところ求められた情報を与えれば生き抜くことができた訳ではなかったそうだ。

ましてや、拷問を耐え抜いて生き抜くことなど不可能だった。

14000人から20000人の人々が収容され、生きて出てこられた人数はたったの8人。

軍はどんな情報を求めていたのか?

結論、軍は情報なんて求めてなかった。

ここでは、キリングフィールドで人々をあたかも正規な理由で処刑しているかのようにみせるため、嘘の供述をさせていたのだ。

ある人は「CIAとして動いていた」と、または「ある国のスパイとして…」と供述させられた人もいたそうだ。

そのあと膨大な自分について嘘の調書を手書きで書かされ…

要はここで行われていたことはキリングフィールドで行われる処刑のつじつま合わせだったのだ。

最後の14人

トゥールスレン博物館に入場すると、まず14人のお墓が目に入る。

赤字はこの墓がどのような人の墓かを説明している

なぜ、14人なのか。不思議に思った。

音声ガイドを聞くと、この14人はベトナム軍がこの施設を発見した時に死体として放置されていた人たちだという。

言うならばこの施設での最後の犠牲者ということだ。

ここでは発見された部屋に発見された時の様子を撮った写真が飾られている。

この施設に来て絶句するポイント1つ目だ。

写真があまりにも鮮明で、遺体の様子がありありと分かってしまう…

一部白骨化した遺体、泡を吹いて亡くなっている遺体、腐敗して腹部が膨張している遺体などそれぞれの部屋にインパクトの強い写真がある。

もし、何も知らずに僕がこの施設を発見し14人の遺体を見つけたならば写真など撮る余裕もなく、あまりのショックで気を失いそうだ…

この施設を見つけたベトナム軍は一体どのように対処したのか…

写真を撮るというのがまず凄い…

しかし、おかげで今僕たちがこうして当時の惨劇を目の当たりにすることができている。

ここで亡くなった人は14人どころではなく1万人以上の人がいるが、あなたがここを訪れた際はまずこの14人を追悼しよう。

血塗られた部屋

ここを訪れた僕たちが回る部屋は全て実際に拷問などに使われていた部屋だ。

博物館というぐらいだから、小綺麗にしているのだろうと思ったら大間違いだ。

それはもう…まじで…

ここで拷問が行われていたのだと疑いようのない生々しい血痕のシミが床のいたるところにあるのだ。

あまりの出血量と時間が経っていたのもあって、完全に消すことは難しかったのだろう。

写真に引き続き、この血痕が部屋の雰囲気を一気に重くする。

外は明るい、扉からは陽の光が惜しみもなく入ってきている。

しかし、なんとも言えぬ暗さを感じる。

これまで廊下を喋って移動してきた外人も含め部屋に入った人はみんな言葉を失う。

行けばわかるが…空気が冷たくなり、息苦しく感じるのだ。

もともと高校であったこの場所は、常夏のカンボジアらしく風通しを良くするために壁の上に通気口が作られている。

それも拷問の際に出る声が外に漏れぬようコンクリートで埋められている。

上の通気口を塞がれているのがわかる

そんな部屋で毎日繰り返された様々な拷問を考えると、一部屋5分も滞在することは出来なかった。

部屋にも様々なタイプがあり、これらのような拷問部屋の他に集団部屋や独房などがあった。

集団部屋にはたくさんの子供が押し込められ、過ごしていたそうだ。

かつて笑い声の響いた教室は、泣き声やうめき声しか聞こえなくなってしまった。

そして、独房は1つの教室に無理やり仕切りを作り信じられない狭さのものだった。

まだ罪人ならギリギリ理解できる。

しかし、ここに収容されていた人たちはなんの罪もなく先日まで家族と平和な日々を過ごしていた人たちなのだ。

そんな人たちがなぜこんな粗末な場所に閉じ込められ、挙げ句の果てに拷問され殺されなければいけなかったのか。

これが独房に中の様子である。
番号が2つふってあるということは2人が収容されていたのだろう。

いくら考えても、目の前には確実に使われていた施設があるのみ。

わかることはこれが現実世界で行われていた事実のみだった。

経験していない僕がこの惨事を本当の意味で理解できる日は来ないのかもしれない。

幹部として動いた少年・少女

ここまで、部屋の惨状に驚いていた僕だが施設内を移動していくにあたってさらに驚かされることがあった。

この残虐な施設の運営を担っていたのは中学生や高校生の年頃であった少年少女であったことだ。

信じられるだろうか。

10代の子供が同い年の子、もしくは親世代の大人たちの点呼をとったり拷問の管理を行っていたということ。

そして、最後にはこの子達も理不尽な理由で処刑されてしまうのだ。

ここで働いていた経験のある当時少年だった男性のインタビューが音声ガイドには収録されている。

男性はやっとの思いで言葉を絞り出した。

「自分が生きるためにやったんだ」

「やらなければ死ぬ」

もちろん彼がやったことは許されたことではない。

しかし、完全悪と割り切れないのは僕だけだろうか。

完全悪と言えるのは政府の幹部とポル・ポトではなかろうか。

ここに関しては人それぞれの意見があると思う。

ここの是非はいったん置いといて、少年について思ったことを書く。

10代でこんな酷な選択を迫られたことも同情に値するが、何よりこれから歩む人生でこの過去を一生背負っていかなければならないのが一番辛いはずだ…

比較的僕は当時の彼らの年齢と近い。

当然、人を殺す場所で働いたこともなければ人を拷問にかける指示も出したことない。

しかし、インタビューを受けた男性はこれからも続く人生をずっとこの過去と一緒に歩んでいかなければいけないのだ。

「生きるためにやった」

命がかかった場面に遭遇したことがない平凡な僕にはこの人の心情を到底思い計ることはできない。

仮に僕が同じ立場だったならば僕も自分の命を最優先にすると少なからず今は思う。

アニメのように、人の命を守るために自分を犠牲にすることなど現実世界ではとてもではないが不可能だと感じる。

しかし、人の命の上に生きることはそれもまた険しい道のりだと思うのだ。

細かく言えば僕たちみんな先祖のおかげで生きているのだが、この男性はまた違うものだ。

望まずして直接的に目の前でたくさんの命を見捨て、今を生きている。

時に救えたかもしれない命のことを思い出すこともあるだろう。

そんな膨大な辛い記憶たちとこれから何十年も生きていかなければならない。

死ぬのも地獄、生きるのも地獄。

まさにこのことなのかもしれない。

管理しやすいように、基本的に部屋は通り抜け出来るようにされていた。

写るリアル

これまで様々な部屋を見て回って、少しへばった僕は木陰のベンチで10分ほど休憩して次に向かった。

次からは展示がメインだった。

何の展示かというと、犠牲になった人の数多くの顔写真や拷問の様子を表したイラスト、当時の写真などだ。

ここではポル・ポトの写真や当時の政府で幹部としてこの大虐殺を主導していたメンバーの写真があった。

その写真で彼らは楽しそうに笑っていた。

ここで人間同士の出来事だと改めて実感する。

何か目に見えないものがこの大虐殺を主導していたのかもと、どこかで考えていた自分がいた。

比較的平和な世界で生きてきた自分にとってはそれほど信じがたいものなのだ。

犠牲者の顔写真が展示されているといったが、これらの写真は当時管理するために撮られたものと思われる。

一番左の窓から少しだけ並ぶ顔写真が見える

写真の彼ら全員に番号がふられている、ここにきたその日から番号が振られ、彼らが名前で呼ばれることはなくなるのだ。

赤ちゃんを抱いている母親の写真もあった。

しかし、飾られてるのは顔写真だけではない。

ここにも遺体の写真があったのだ…

そして、今回はベトナム軍が撮ったものではなく、カンボジア軍自らが撮ったものである。

遺体なんて山ほどあったはずなのに、なぜわざわざこの写真を撮ったか。

“ここはあくまで供述させる場所であって、処刑する場所ではない”

これが政府の方針だった。

このことから、政府からすればここで遺体が出るわけないのだ。

しかし、常軌を逸した拷問のあまり命を落とす人も当然いた。

拷問で死んだと政府にバレると、次は拷問した人が拷問行き。

そのため隠蔽工作のために撮った写真というわけだ。

これに関してもなんともむごい写真であった。

顔が原形をとどめていないものもあった…そんな遺体の上にわざとらしくウソの死因を書いたボードがポンっと乗せられているのだ。

それに対して、政府も本気で探るわけもなくこんな適当の隠ぺいで納得していたのだ。

当時の様子を表すものとして、イラストも展示されてあった。

このイラストは当時収容されていた現在アーティストとして活動している人が書いたものだ。

この人は自分が生き証人として、今後生きていくと決意した強い人。

そのイラストの中には拷問を表すものもあったが、僕はその人が日常で見た状況をイラストにしたものに衝撃を受けた。

例えば、先ほど紹介した子供が過ごしていた大教室で格子の隙間から軍人がホースで水を子供たちに放ち、それが子供たちにとってシャワー代わりだった様子。

また、イラストを描いた男性が夜中に見た光景として棒に家畜さながら両手両足をしばられ運ばれている様子。

見た男性は、運ばれている男性がうめき声をあげるまで生きている者とは思わなかったと証言している。

このような写真やイラストを見ていると、人権なんてあったものじゃないなと感じるほかなかった。

訪れる意味

世界に目を向けると、拷問が行われていたのはもちろんカンボジアだけじゃない。

拷問とは本来理不尽なものだ。

しかし、殺しまではしない。

世界の拷問を例にとってもここまで人が死んでいる拷問はないのではないか。

ここの博物館でも実際に使われた多種多様の拷問道具が展示されている。

学校の遊具を改造して作った拷問道具。
排泄物を貯めたツボの中に上からつるした人間を頭から繰り返し突っ込むのだ…

この道具を使って拷問をしていたのか…と胸を痛めたのは言うまでもないが、同時にこれは拷問といえるのかと疑問に思った。

収容人数が1万人を超えていたにもかかわらず、出てこれたのが本当に8人だけならば、最後には死ぬその行為はもう処刑の一環ではなかろうか。

最後の最後にこんな素朴な疑問を抱いてしまったのだ。

正直、このブログを読んでいる人からしたらどっちでもいいではないか。そんなことより、その場で行われていたことに目を向けろといった感じかもしれない。(ごもっともである…)

しかし、僕はこの場所とキリングフィールドに訪れてみて大切なことが分かったのだ。

訪れた人はカンボジアで起こったこの惨劇を知ることが1つ、そして大小関係なく自分なりの疑問を抱いて持って帰ることが必要だと感じた。

知るだけならこの時代、インターネットから溢れんばかりの情報が出てくる。

しかし、その場の雰囲気や様子は実際に足を運ばないとわからないことばかりだ。

そこに行き感じたことを自分の中で時間をかけ消化することで訪れた意味を見いだせるのではないか。

そして、このような出来事はつい歴史の1つとして遠い昔のように捉えがちだが、これに関しては違う。

にわか信じがたいが、この悲劇から50年もたっていない。

しかしながら、日本でポル・ポトが行ったこのことに対する認知度はそれほど高くないように思える。

恥ずかしながら、僕もカンボジアを訪れるまでは知らなかった。

現地を訪れ、場の空気や様子を肌身で感じることに意味があるといったが大前提として知ることがまず大切であろう。

もちろんこの場に一人でも多くの日本人に訪れてほしいが、それよりもまず多くの人にこの歴史を知ってもらいたい。

前回に引き続き、カンボジアの暗い歴史について書かせてもらったがこの歴史を知らずしてカンボジアを語ってはいけないと心底感じた。

現在カンボジアの平均年齢は25歳、日本とおよそ1回り違うのだ。

「若くて未来があるね!」と言いたくなる気持ちはわかる。

しかし、これはポル・ポトの大虐殺による影響なのだ。

生きていれば今40過ぎの人たちやそれ以上の人たちはほとんど殺されたということである。

加えて影響があるのは教育面だ。

日本でもカンボジアに学校を建てるといった趣旨の募金やボランティアを見たことがある人も多いだろう。

たしかに学校も必要だが、圧倒的な教師不足にカンボジアは陥っているらしい。

ポル・ポトが教師を始めとする有識者を皆殺しにしたせいで、いまなおカンボジアの発展を遅らす原因になっているのだ。

この旅では時間の関係上1つの国に長期滞在することが難しい。

よって、どうしても表面的にしかその国を観光することができない。

しかし、その中でもやはり今回のような一種の闇のようなものは触れる必要があると思う。

その国の文化や国民性を深く感じる時間が無くても、最低限知っておかなければならないことはこれからも前もって調べ、感じる時間は取っていきたいと思う。

長い文章になりましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。