みなさんはカンボジアと聞いて何を思い浮かべますか?
アンコールワットを始めとする数々の遺跡?
それとも学校支援などの貧困問題?
僕もテレビでカンボジアに学校を建設していく番組やアンコールワットの特集を見た影響でみなさんと同じようなイメージを持っていました。少なくともこの日までは。
しかし、カンボジアについて調べていくと気になる記事を見つけました。
題名は「カンボジアの血塗られた歴史」
夜中に興味本位で読み始めたのですが、気分が悪くなり最後まで一晩で読みきることができませんでした。(2晩かけなんとか読み切りました…)
この歴史の中心には歴史に詳しい人なら知っているかもしれませんが、ポル・ポトという独裁者がいます。
ポル・ポトは熱烈な共産主義者でした。
共産主義とは、簡単に言うと思想から財産まですべてをみんなで共有しようというものです。
なぜ、ポル・ポトが共産主義者であったか。
当時のカンボジアで、「アンコールワットが作られた時代に栄光を築いたクメール王国のような民族主義をもう一度!」という雰囲気に熱を帯びてきていたことが原因の1つとされています。
また王族と関係のある家庭の子供だった小学生だったポル・ポトは、当時各地に植民地を展開していたフランスなどの子供と同じ授業を同じ教室で受けていました。
これらの環境に影響され、徐々に共産主義者になっていったといわれています。
環境に加え、ポル・ポトが猛烈に影響を受けた人物もいます。
それは同様に共産主義者であった中国の毛沢東です。
毛沢東はスターリン、ヒトラーに並ぶ独裁者とされています。
毛沢東は後の中国に今でも残る多くの負の遺産を残したといわれていますが、毛沢東を筆頭に行われた文化大革命では少なくとも1億人以上の国民が何かしらの被害を受けたといわれています。
毛沢東に心酔していたポル・ポトは、文化大革命に似るものをカンボジアで行い当時で言うと三分の一以上のカンボジア国民、数にして200万人以上が命を落としました。
今回の記事はポル・ポトがこの残虐な処刑の場としていたキリングフィールドのひとつと拷問の場にされていたトゥールスレン博物館についての訪問記としてがひとつ。
もう一つは、訪れた際の感情を言語化し整理することが目的になります。
そして一人でも多くの人にこの悲惨なカンボジアの歴史を知ってもらいたい。
これまでの記事は全て楽しい旅行記でしたが、今回はどうしても暗いお話になってしまいます。
あの立派なアンコールワットを作ったのが人間であるように、今回の悲惨な歴史を作ったのもまた人間。
ブログという形で、拙い文章になりますが今回感じたことをここに残しておきたいと思います。
今と昔のプノンペン~世界で共有し続けねばならない歴史~
先日、シェムリアップからプノンペンまで寝台バスを使い弾丸で移動して来た。
カンボジアの首都でもあるプノンペン。
訪れた感想としては、ほかの国のように首都だからと言って特別発展している感じには見られなかった。
もちろん、田舎地帯に比べると道路もしっかりしているし多種多様な店も多く存在する。
しかし、プノンペンの魅力(魅力と言っていいのか怪しいところではあるが…)はシェムリアップで感じられる歴史とはまた違った歴史を感じられることだと思う。
先日訪れたアンコールワット含めた多くの遺跡から感じられるものがカンボジアの誇る歴史とするならば、プノンペンで感じることができる歴史は必ずしもスポットライトが当てられるものではない。
しかし、アンコールワット同様に注目しなければならないカンボジアの歴史であることも事実だ。
プノンペンに来た目的は前述したとおり「キリングフィールド」と「トゥールスレン大虐殺博物館」を訪れることだ。
まずは処刑の場とされていたキリングフィールドに訪れた。
キリングフィールドとされた場所はカンボジア全土に300か所以上存在するが、今回訪れた場所は特に多くの人が殺され、罪のない人たちが埋められた場所である。
この場所では日本語の音声ガイドをつけることができる。
もし、訪れる予定の方はプラスで料金が数百円程かかるが、惜しまず使ってほしい。
当然ではあるが使ったほうが数百倍鮮明に当時の様子をイメージできるのだ。
特に、当時処刑の際に響き渡る断末魔をかき消すために流された革命歌を処刑場に立ち聞くと目まいがするほど鮮明に当時の様子がイメージできる。
「そんなのイメージしたくない!自分は訪れるだけで十分歴史を感じることができる」
そう思う人がいるかもしれない。
確かに無理に聞く必要はない。人によっては本当に気分が悪くなる人もいるだろう。
しかし、僕はあの場所であの音楽を聴いたことでしばらく時間がった今でも鮮明にあのメロディー、場所を思い出すことができる。決して気分がいいものではないが、必要なことでないだろうか。
頭の中にこの記憶がある限り、どこかで人間がこの過ちを繰り返そうとしたときに違和感を持つことができる。
要は、音も使うことで記憶の定着度が違うのだ。
五感を使うことで物事は記憶に残りやすいと聞いたことがある人もいるはずだ。
この歴史を人はみな深く理解する必要があり、決して忘れてはいけない。
自分の耳で聞き、自分の目で見て、肌身でこの凄惨な歴史を感じることができるのは学校の教室でも、インターネット上でもない。
カンボジアでしか、キリングフィールドでしか感じられないのだ。
僕だけがその時違和感を持ったとしても反旗を翻す以前に、僕の意見が表舞台に出ることすらないだろう。
しかし、違和感を持つ人が増えるとそれは一つの世論になるかもしれない。
せっかく訪れたのならば、多少自分の心が消耗しようともしっかりとこの歴史を刻んで帰ってほしい。(主観的な意見で申し訳ない)
地獄の門が開いたとき
では、内容に入っていこう。
まず、ポル・ポトはどんな人たちを処刑していたのか。
まず標的なったのは、教師などこれまでにしっかりとした教育を受けてきた有識者だという。
通常ならば、有識者は今後のカンボジアの発展を助ける存在として重宝されるものである。
なぜそのような有識者にターゲットを絞ったのか。
ポル・ポトが掲げたスローガン「農民こそ英雄である」が理由である。
この考えは崇拝していた毛沢東と同じ考え方であり、次にとった行動も同じだ。
教育を受けた者は今後自分の政治に対して反逆者になる可能性があるとみなし、有識者は問答無用で処刑した。(反対に農民なら素直に従うといった極端な考え方だ)
あくまで可能性だ、実際に反逆したわけではなく反逆しそうというあいまいな理由だけでカンボジアにいた優秀な学者や教師はみな殺された。
さらに極めつけは「眼鏡をかけている者」も有識者とみなしみんな処刑した。
国内の有識者を全員処刑した後は、留学していた学生をあたかもそれっぽい理由で呼び戻し全員処刑した。
このようにして、カンボジアの未来を担うはずだった優秀な若者もみな殺された。
そのあとは農民以外はみんな反乱予備軍として処刑するといって、町に住んでいた商人などとにかく農民以外の人をみんな町から追い出し家族ばらばらにして各キリングフィールドに送り込み処刑した。
国を作りたかったのか、国を壊したかったのか…わからない。
キリングフィールドで処刑された人はほとんどが一般庶民であったということだ。
では、農民は全員助かったのか。助かった人はいないのか。
一時的に処刑されなかった人たちはいたにはいたが、そのような人たちにポル・ポトは無理難題な大量の米を政府に収めるよう命じた。
そして、納められなかった人たちは結局処刑されたのだ。
キリングフィールドはただ人を殺すためだけに用意された場所であった。
人を殺すためだけの場所ということもあり、どこも作られた場所はとても辺鄙な場所であったという。
僕が訪れたところも、今なお特にこれといった観光地があるわけでもなくキリングフィールドだけがあり、近くに家がぽつぽつ建っているだけののどかな所であった。
狂気
さきほど書いた通り、キリングフィールドでは一般庶民が多く処刑された。
では、どのように町中の人々を動かしたのか。
まず、ポル・ポトが指揮する軍が町に出向き一時的に移住をしてもらうと伝える。
この時、ポル・ポトはどちらかと言えば支持されていたそうだ。
当時のカンボジアがかつてのクメール王国のような、民族主義を!と盛り上がっていたこともあり町にポル・ポト政府の軍が来てもそれほど恐れていた様子はなかった。
そして一週間もすれば帰ってこれると伝えられた人々は「なぜ今なのか」とは思いながらも従った。
人々は元居た場所に帰ってこれると信じさせられ、人生の終着点に送り込まれたのだ。
キリングフィールドに入場するとまず、その様子を表す看板が人々が降ろされたとされる場所に立っている。
僕たちはこの場所をスタート地点としてこれから回っていく。
到着したその日から処刑が始まり、1日に300人ほどが処刑された。
分かるだろうか、1人ずつ処刑していくにもかかわらず1日に300人というペースの異常さ。
しかも銃は弾が高いという理由で使われず、すべてナタや斧など必ずしも即死に至らないもので執行していたのだ。
1日中執行していたと仮定しても1時間に12人ペースである。
単純な計算ではあるが、5分に1人、24時間殺され続けていたのだ。
この驚異的なペースがわずか数年のうちに200万人以上の処刑を可能にしたのです。
毎日行われていたとなると、もはや人間の所業とは到底思えないのは僕だけじゃないはず。
躊躇しなかったのか、自分と関わりを持っていなかった人間をどうしてそういとも簡単に殺せたのか。
音声ガイドには聞きたい人にだけ聞いてもらう話がいくつか収録されている。
僕は聞ける体力がある限り、理解を深めたいという思いと単純に興味があったので全て聞いた。
後のポイントで当時執行人だった人のインタビューが収録されているものがあった。
その人ははっきりと迷いのない声で答えた。
「自分がやったことに対しての後悔はない」と。
怒りや恐怖を通り越した感情が僕の中にはあった。
僕はてっきり「従うしかなかった。仕方なかったんだ」といったようなある種お決まりである責任逃れの答えが返ってくるものとばかり思い込んでいた。
それがふたを開けてみるとどうだ。
責任を感じるどころか、今なお誇りに思っている。理解に苦しむ…
人間、狂おうと思えばどこまでも狂えるものだと実感した。
フェイク
キリングフィールドを音声ガイドに従い、進み続けると大きな木に出会う。
この木はマジックツリーと名付けられている。
前半で軽く触れたが、ここに発電機とスピーカーを設置し処刑人の断末魔をかき消すために大音量で革命歌を流していたそうだ。
キリングフィールドは当時謎のベールに包まれた施設だった。
周囲には農家の住人がいたが、誰もこの施設の真相を知る者はいなかった。
なぜか。軍が完全にカモフラージュしていたからだ。
音だけではなく、軍は死体の匂いにも気を配り薬品入りの食事を与えていた。
明らかに異臭を放つ食事さえもしばらくまともな食事をとれていない人にとっては貴重な食事だから食べたのか、それさえ判断できないほどに衰弱していたのか。
いぜれにせよ、現代の日本で何不自由なく育ってきた者の想像を絶する状況だったに違いない。
軍は決まった時間に革命歌を大音量で流し、決起集会が行われているように見せつつもその裏では人が死んでいっている。
僕たちはこの場でその音楽を聴くことができる。
当時を完全再現で発電機の機械音もノイズとして混ぜ、亡くなっていった人々が最後に聞いたと思われる音を聞きことができるのだ。
キリングフィールドでこの時だけは、ほんとに鳥肌が立ち身体が硬直した。
音質から何からすべて本物さながらなのだ。
断末魔までは収録されていないが、聞こえてきそうなほどにリアルだった
ぜひ、マジックツリーの目の前で想像力を働かせて聞いてほしい。
あまりにも粗末な大量のお墓
キリングフィールド内には、見て取れるものだけでも大量の大きな穴が掘られている。
今は土砂で埋もれてきているが当時は深さ5メートルもの穴が掘られ、そこに無造作に処刑された遺体が放り込まれたのだ。
全ての穴が人の墓とは思えないほど大量にあり、一つの穴に100人単位で埋められていたのだ。
目を凝らすと、人の骨の欠片や歯、来ていたとされる服が見つかる。
僕も実際に見つけたときは目を疑った。しかし、実際に数が多すぎて回収しきれていないのが実情だ。
ものによっては、女性と子供だけが埋められた墓もあった。
お墓の近くには子供が着ていたとされる服が透明なボックスに収められており、中には赤ちゃん用の服も混ざっていた。
赤ちゃんまで殺す必要はなかったんじゃないのかと思うが、これもポル・ポトの方針の1つである。
「雑草を抜くなら、根こそぎだ」
成長した子供が親の仇で自分に敵意を示す可能性があるため、家族単位で全員抹殺。これが掟だった。
ここで少し話がそれるが、もう一つポル・ポトが軍に出した方針を紹介する。
「敵を誤って殺すことは敵を誤って殺し損ねるよりかはマシである」
この発言からポル・ポトが未来の危険因子除去にどこまで力を入れていたのかわかるだろう。
これに関しても崇拝していた毛沢東と同じ手法だ。
心まで殺された女性たち
先ほど、女性と子供だけが埋められていた墓の存在を話した。
その穴の近くに、ひときわお供えの数で目立つ大木がある。
その木の名は「キリングツリー」
なんとまだ頭が柔らかい赤ちゃんはこの木に頭を打ち付け殺したというのだ。
改めて、むごさを感じる瞬間だ。
分からない、ここまで来るまで何度も何度も「なぜ」を繰り返し考えたが歩を進めるほど謎は深まるばかりだ。
現代を生きる僕たちには到底たどり着けない領域なのだろう。
赤ちゃんの殺し方にも絶句するが、これがあえて母親の前で行われたということに言葉を失った。
自分の子のむごい最期を見せつけられ、そのあとに自分が処刑される。
身体が朽ちる前に心を先に朽ちさせる。
女性の心を灰にした処刑方法はまだあった。
自分の処刑を待つ間に数十人の前で裸にされ辱めを受けた人もいた。
カンボジア人女性はもともとおとなしく内気な性格だというが。それにも関わらずこの仕打ち。
ポル・ポト政権が失脚し、辱めを受けた後は処刑を免れた人もいるがこの辱めが心に刻まれ一生残る傷になり祖国を捨て他国に移住したそうだ。
バナナを理由に…
最後にある女性のストーリーを紹介しておく。
これは当時処刑者として収容されていた女性のインタビューで衝撃を受けたストーリーだ。
ある日その女性が敷地内を移動していると、兵であろう男が収容者の女性に対して怒鳴っていた
なにやら、女性が持っているバナナについての問答のようだ。
「このバナナをどこから盗んだ?!」
女性は大きな声で答えた。
「ある監察官が慰労の意を込めてくださったものです!」
男が問うのをやめた。
これから拷問だろうか…とみていた彼女が心配した次の瞬間!
なんと近くで作業していた者の斧を強引に取り上げるや否や迷うことなく女性の頭に斧を振り下ろしたのだ。
周りにいた私含めた数人の収容者は開いた口がふさがらなかった。
去り際男が言った。
「おい、そこのお前ら、これ埋めとけ」
私たちは頭を働かすことなく、手だけを動かした。
その女性も処刑は免れたが、この光景が頭から離れず今もトラウマに苦しんでいる。
このように処刑を免れ、命からがら生き延びたとしてもほとんどの人が心に傷を負っているのだ。
納骨堂に並べられた数だけあった未来
キリングフィールドの最終地点は入場の際にも見られた立派な納骨堂だ。
納骨堂の中に収められた骨は基本的の大きなパーツのものだ。
特に頭蓋骨は四方向に隙間なく並べられている。
最新の技術で分析され、綺麗に整頓された骨はびっしりと納骨堂内にならべられている。
頭蓋骨によっては、ナタで割られた跡があったりドライバーのようなもので突き刺された跡があったりと死因を推測できるものも多い。
しかし、これがすべてではないことは明らかだ。
未だに発見されず、地中に残されてるひともいる。
そう思うと、発見され綺麗に立派な納骨堂に収められているだけ幸せなのかとも思った。
しかし、間もなくしてこれは第三者として俯瞰的にこの歴史を見ている僕の驕りであることに気づいた。
本来、幸せというものは生きているうちに掴むからこそ成り立つものではなかろうか。
それを、今を生きる僕たちが半端な気持ちで夢半ばで死んだ人に対して幸せなほうだよなんて言ってはいけない気がする。
たしかに発見され納骨堂に収められることに関しては発見されていない人と比べると幾分かはマシかもしれないが、これを幸せだなんて到底思えない。
犠牲者全員に掴むはずであったろう幸せが必ず存在したはずだ。
それをポル・ポト一人の理想政治のために奪われ、全員無念の中亡くなっていった。
その思いにできる限り寄り添い、今後人間が同じ過ちを繰り返さぬように歴史を紡いでいくことが僕たちにできる唯一のことだと思う。
本当はトゥールスレン博物館についてもまとめたかったが、文量的にも僕のメンタル的にも次回に回すのが賢明だと思ったので次回にトゥールスレン博物館は回します。
次回は「この歴史知らずしてカンボジアを語るべからず~トゥールスレン博物館編~」です。
長い文章読んでいただきありがとうございました。